中央線創刊の精神
中央線創刊の精神(こころ)
本誌「中央線」を創刊したのは藤巻宣城(ふじまき よしき)明治27年―昭和43年。藤巻は現在の北杜市須玉町大豆生田(まみょうだ)の出身で国鉄中央線の穴山駅から甲府商業学校(現在の甲府商業高校)に通っていた。
一年先輩に遠藤伊作がおり、藤巻は「あじさい」という文芸同人誌を発行していた。藤巻は予科2年の時、その仲間に加わり、短歌、詩、小説を投稿していた。「あじさい」は3年ほど続いたが、同人が学校を卒業し、就職などで県内外に散っていったため廃刊となった。
「あじさい」の仲間たちは五十代になり、社会人としてそれぞれ大成してみると、若かった頃が懐かしく思い出され、「また同人誌でも」という声を察知した藤巻は昭和33年2月「中央線」の発刊に踏み切った。ところが同年の11月に同名の同人誌「中央線」が発刊されるという思わぬハプニングが起き、統合話などもあって、結果的に双方とも「3号雑誌」の域を超えぬまま廃刊となった。
藤巻のすごいところは「中央線」の発行をこれであきらめなかったことである。捲土重来を期して密かに必要な準備をすすめ、十年後の昭和43年3月、不死鳥の如く復活させ、再び創刊号を世に送り出したのである。この新「中央線」が現在80号、55年間の伝統を築き上げてきた第一歩であった。藤巻は64年に及ぶ人生を振り返り、「自分のやり残したことは、郷土に高いレベルの総合同人誌を作っていくことだ」との使命感に燃えて全力を傾けていた。
「『中央線』のために死ぬなら悔いはない」と、体を心配する奥様に藤巻が口にした言葉である。藤巻は創刊号に次ぐ第2号の編集を終えたのち、持病のぜんそくの悪化により享年64歳の人生を閉じた。藤巻の下で編集に携わって来た深沢康文はこう書いている。
「中央線」が藤巻さんを殺したようなものですね」とお悔やみを申し上げたところ、奧様は「『これで本望でしょう』と涙ながらに語った」
「中央線」第3号と藤巻の「中央線」にかける情熱の深さを知る人に、山寺仁太郎がいる。山寺は第3号から山岳エッセイ「甘利周辺」の長期連載を始めた人で、長い間、本誌の編集、発行人として尽力された。そして彼を敬愛してやまない後日ノーベル医学生理学賞を受賞された大村智博士がいた。
二人は意気投合し、博士は請われるままに「中央線」にエッセイを掲載した。やがて高齢となった山寺が逝去すると、将来の存続を心配した編集人(蔦木)同人等の強い要望に応え、山寺の後任として発行人を引き受けたのである。ノーベル賞受賞後の大村博士は一段と多忙になりながらも、郷土の発展を願い発行人を務めている。創立者藤巻宣城もさぞや喜ばれていることであろう。
われら同人、誌友は、あらためて創立者の郷土愛に満ちた不屈の精神を学び、また、山寺、大村発行人と共に、本誌がますます着実に開花を重ねていくことを願わずにはいられない。
2024年5月9日